「きのこ天丼が、食べたいんですよね」
不意にこぼしたSさんのセリフにより、私はとある場所にある、とあるお店を、ありありと思い浮かべました。
「うんうん。じゃあ、秩父に行く?」
そう。Sさんは秩父にあるお店の『きのこ天丼』が大好物で、ずっとそのお店に行きたがっていたのです。
ですがここ数ヶ月、その機会に恵まれていませんでした。
ようやく行ける条件が整ったようです。
3月半ばの日曜日──。
私がちょうどバイク歴4ヶ月目となった記念すべきその日、私とSさんは埼玉県秩父市へのツーリングを決行します。
混雑を予想し、念の為いつもより早い時間に合流しました。
129号線を抜け16号線に入ります。思ったよりも道が空いていました。
信号で停止する度、「いい天気だね〜」と言い合い空を見上げます。前日の猛吹雪が信じられないくらいの快晴でした。
16号線を出るや岩蔵街道を進みます。
あ、以前はこの先のガソリンスタンドでお釣りを貰い損ねたんだったなぁ。
走りながらそれを思い出し、ふっと笑みがこぼれます。
秩父までは一度しか走っていませんが、それでも当時運転初心者だった私は、必死に下調べして覚えこみ、走りに出ました。そうして走った道は、案外忘れないものなのだと思いました。
秩父と言えば、半泣きで帰途についた失意のソロツーリングの記憶が鮮明です↓
https://qmomiji.hatenablog.com/entry/2019/12/17/071453
https://qmomiji.hatenablog.com/entry/2019/12/18/065825
https://qmomiji.hatenablog.com/entry/2019/12/19/202149
ですが、実は秩父に来るのはこれが三度目です。
私が教習所に通う前、Sさんからタンデムで連れて来て貰ったことがあったのです。
給油をし、いよいよ国道299号線へと入ります。
ほどよいワインディングと、道脇を流れる川のせせらぎ、山の斜面に揺れる木々を目にして、私はなんて勿体ないことをしたんだろうと、改めて思いました。
前回ソロでここを走った時には、忘れたお箸のことで頭がいっぱいでした。帰り道では完全に落ち込んでいました。
こんな美しい道を少しも味わっていなかったのです。
ツーリングにおいて、気持ちを切り替えられずに捉われ続けることが、いかに勿体ないことなのか、痛感させられた道のりでした。
走りすすめると、Sさんが前方を指差します。
私もすぐに気付きました。
向こう側に聳える山が、白い粉雪を纏い台座しています。
小さく歓声を上げてその絶景に見入りました。
急勾配を上がった先に、その公園はありました。
バイクを停めて『見晴らしの丘』から景色を眺めます。
Sさんがキャリアボックスからぬいぐるみを出し、その景色を背景に撮影会です。
嘘みたいに綺麗な青空でした。
この反対側の丘からは、先程魅了してきた山、『武甲山』が望めます。
「いい所だね~、ここ」
ツーリングで公園巡りをしている私は、向こう側に広がる芝生広場と桜らしき木々の連なりに目を奪われながらそう言います。
「そうですよ。絶好のお弁当スポットだと思いまして」
Sさんの返しに思い当たります。
そういえば、以前Sさんが別の方と秩父ツーリングに行ったらしき日に、『弁当スポットを見付けた』とLINEしてきてくれました。
弁当を持たずにツーリングをするSさんが、お弁当スポットを気にする筈はありません。
覚えていて、教えてくれたのかもしれません。
確かに、あの辺りに敷物を敷いてお弁当を食べたら気持ちいいだろうな、と思いながら見渡してしまうあたり、やはり私は弁当持参のライダーなのでしょう。
でも今日はお店で食べるためにやって来ました。
その公園を後にします。
ほどなくして到着した、道の駅あらかわ。
そして、そこに隣接されている本日の目的地、『鈴ひろ庵』さんです。
店内に足を踏み入れ食券を買うと、懐かしそうに目を細めながら店員さんと挨拶を交わすSさん。
注文するとテーブル席に着き、ホッとひと息つきました。温かいお茶が、冷えた身体に染み渡ります。
「ヨシさん、12時半くらいに来るそうですよ」
「へぇ〜、そうなんだ?」
一気にテンションが上がります。
今回のツーリングに、ヨシさんが来てくれるかもしれない、という話はSさんから聞いていました。
ヨシさんとは、去年の大晦日に一緒に走って以来です。
https://qmomiji.hatenablog.com/entry/2020/01/02/091124
ここはセルフサービスのお店なので、番号と注文したメニューを呼ばれて取りに行きます。先に、私の注文した『きのこカレー鹿肉入り』が呼ばれました。
前回連れてきてもらった時から、次に来たらこれを食べようと決めていたのです。
お洒落な盛り付けに、気分も高揚します。
Sさんの注文した、きのこ天丼も出来たのを見て、食べ始めました。
鹿肉がホロホロと口の中で崩れました。とても柔らかいお肉で、噛むとほんのりと甘みが広がります。
カレーも、程よくスパイシーでとても美味しかったです。
「こういうのを幸せって言うんでしょうね」
大盛りのきのこ天丼を掻き込みながら、Sさんが恍惚とそう呟きます。
「良かったねぇ。ずっと食べたがってたもんね」
Sさんは一時期、このお店に毎週のように通っていたそうです。決して近い距離ではありません。それでも「気が付いたらここにいた」というほどに、通いつめていたのだとか。
それはこのお店で出される料理の美味しさのみならず、居心地の良さもあったのかもしれません。
店員さん達全員と仲良くなり、打ち解けながら話し込んでいる様子を見ると、こんな関係も素敵だなぁと思いました。
「そういう場所をツーリング先に作るのも、またバイク乗りの醍醐味かもしれませんよ」
食べ終わり、お茶を飲みながらSさんがそう語ります。
決して華美ではないけれど、掃除の行き届いた心地よい空間、美味しい料理、何かと気を回して下さる店員さん。
店内にはオルゴール調のBGMが流れており、ゆったりとした時間を提供してくれます。
確かに落ち着きます。
でもここはSさんが見付けた、Sさんの『憩いの場』です。私は私の、そんな場所を見付けていけたらと思いました。
「おぅ」
不意にSさんが私の背後に目を向けそう声をかけたので振り返ると、ヨシさんが立っていました。
私は挨拶を交わしながら席をずれ、隣に座って貰います。
「あ、ありがとうございます」
丁寧にそう言いながら隣に座ったヨシさん。今日は仕事帰りに直接ここへ来たから、車なのだそうです。
てっきり今日、3人で走れるものだと思っていたので少しだけ残念に思いますが、会えただけでも嬉しい気持ちの方が優っていました。
ヨシさんが輪に入るだけで、周辺の温度が2〜3℃は上がるような、そんなほんわかとした空気になります。
「あ、ところで」
ヨシさんが私に話しかけます。
「今日、使ってないインカムを持って来たんですけど。試してみます?」
ヨシさんのこの問い掛けを皮切りに、今回のツーリングが、いえ、それどころか今後のバイクライフそのものが一変したわけなのですが、この時の私はそんなことなぞ知る由もなく、ただキョトンと聞き返しただけでした。
「…ん?」
そしてこの日。
私は、バイクライフ史上最も大きなミスを犯してしまうわけなのですが…。
それもまた、全く予想だにしていなかったのです。