ひとしきり走り、再びコンビニ休憩です。
駐車場に停めると、スタンドを倒して左足ステップに全体重を乗せ、ひらりと降車します。
「おぉ、すっかり慣れましたね」
Sさんから褒められました。
この時、あまりセローの写真を撮っていなかったことに気付きました。せっかくなので、海を背景に何枚か撮ります。
そしていざ出発となったのですが、ここでSさんが右折で出てUターンしていくと言います。
「えっと…、教官。私は右折で出られますかね?」
そう、私は右折で車道に出たことがないのです。そんな小さなことの一つ一つが不安でした。
「そこの信号が赤になったら片側の流れが止まるので、その隙に出ましょう。いざとなったら車をせき止めるので」
最後のはSさん流の冗談なのでしょうが、もちろん他人様の通行を妨げることなく無事右折で車道に出ることが出来ました。
来た道を戻って行きます。
この頃から風が冷たくなっており、着込んできた冬用装備がようやくちょうどよく感じます。
途中二車線になり車線変更もありましたが、Sさんの真似をするだけでなくちゃんと自分でも確認して慌てず行うことが出来ました。
ブレーキのかかり方も把握してきたので、停止までに何度も左足を地面に着くことも、行き過ぎることもなくなります。
陽はますます紅くなり、三浦半島ののどかな田園風景が優しく照らされていきました。
セローの操作に、気持ちの余裕が生まれたからでしょうか。私はようやく景色に目を向けることが出来たのです。
トンネルを抜け、車の流れに乗って進みながら、私はふと、広がる海に目を向けました。
時間にして、わずか1秒にも満たなかったと思います。
それでも、私はその時目にした光景を生涯忘れることはないでしょう。
今でも目に焼き付いています。
太陽がその姿を沈めた海は、尚も紅(くれない)色にキラキラと輝き、その上でたなびく雲は紫色に染まっていました。海のそこここに鎮座する岩は逆光で黒く威厳を放ち、それが海と空との鮮やかなコントラストを織(お)り成していたのです。
視界がぼやけました。涙が溢れて来たのです。
──いけない。前が見えないから、はやく泣きやまなきゃ。
そう焦るほどに、とめどなく涙が流れ落ちて止まらなくなりました。
そう。私は、何気なく見たその光景に感動したのです。
湘南の海近くに住み、日常のジョギングでも海沿いを走っている私が。初めてのタンデム走行でまさにこの海の夕陽を見て「綺麗だね〜」と呑気に笑っていた私が。今、全く同じ海を見て、感動で涙が止まらなくなったのです。
ガラス越しに眺める車でも、電車やバスでも、まして人の運転で見させてもらうタンデム走行でも、おそらく味わえないであろう感動だったのだと思います。
私はヘルメットの中で、拭うことも出来ず涙を流しながら、今見た景色を反芻させていました。
薄闇の広がる空と紅く伸びゆく海との水平線は、どこまでも『自由』の色彩を帯び、褪せることなく輝き続けるのでした。
その後、この日最後のコンビニ休憩を取り、私は先程見た光景をやや興奮気味にSさんに伝えます。じっと聞き入っていたSさんが、静かに話します。
「バイクは色んなものを乗り越えて走らせるんですよ。気温差、日差し、風。危険度だって車より遥かに高いから、運転中は常に気を張ってます。でも、だからこそ感じ方も変わってくるんです」
そうなのかもしれません。
喉が乾くほどに風を受け、空腹になるほど気を張りつめます。冷気も強い日差しも直に当たります。渋滞のノロノロ運転の大変さは車の運転者には想像も出来ないでしょう。
でもその先で食べたご飯の美味しさと景色の美しさは、筆舌に尽くしがたいものがありました。
私は経済的理由で車ではなくバイクという選択肢しかありませんでした。でも、あえてバイクに乗るという人の気持ちもよく分かったのです。
市内に戻ると、私はSさんに深々と頭を下げお礼を言い、その日の反省点を並べました。
前を走ってくれていないと不安になっていたこと、給油もろくに出来なかったこと、視野が狭く追い越しをかけてきた車両にも気付けなかったこと等。
「でも、無事に帰って来たじゃないですか」
Sさんが続けます。
「ツーリングに出るライダーは、無事帰って来た人が一番偉いんです。いくら険しい峠道を走破しても、ハイスピードで爽快に走り抜けても、事故を起こしてしまっては全て台無しになります」
Sさんの言葉が心に沁みました。
彼がグループツーリングを主催する際に一番に気を付けること。それは、メンバー全員が事故も怪我もなく無事帰宅することだと言います。
一人にでも何かがあれば、そのツーリング全てが台無しになるのだから、と。
今日、少し過剰なまでにコンビニ休憩を挟んでくれたのも、そういう意図があったからでしょう。私を疲れさせないよう、そして事故に繋げないよう細心の注意を払ってくれていたのです。
そんな彼の後ろだからこそ、私は今日安心して走ることが出来ました。
この先、私とSさんとの関係性は変化していくかもしれません。
私はいつか、彼の姿が見えなくても平気で走ることが出来るようになるのでしょう。
そして以前彼は、ツーリングの方針が合わず訣別した仲間もいたと言っていました。私もそうならないという保証はどこにもありません。
悲しいかな、事物(ことぶつ)は流動的です。
それでも、彼が導き指し示してくれたバイク乗りの、そしてツーリングの極意は、私の血脈(けつみゃく)となり活き続けていくことでしょう。
「私、今日感じたことをブログでちゃんと言語化出来るかな?」
「感じたままを書けばいいと思いますよ」
ちなみに、この日の走行距離は83kmでした。
納車当日にしては走った方なのか、そうでもないのかは分かりません。でも私にとっては忘れられない、そして記念すべき83kmの走行となりました。
狭い世界で縮こまり、小さな物事に一喜一憂しながら過ごしていた以前の私。
ツーリングの伝道師であるSさんは、そんな私を嘲笑(あざわら)うことなくそっと扉へと導いてくれました。
バイクというツールを伝えることで。
開いた扉の向こう側に広がっていた世界の色彩は、眩暈がするほど艶やかでした。
この日私は、セローという最高の相棒を、自由の翼を手に入れました。
ライダーとして走り出したばかりの私は、まだまだ不安定で頼りないけれど。それでも、これから続くバイクライフに胸が高鳴ります。