そこは湘南の海が見渡せるお洒落なカフェでした。
私とSさんは、当然テラス席を希望し、着席します。
注文したチョコレートパフェをパクつきながら、キラキラ揺れる海面と、戯れるサーファー達の動きをぼんやり眺めていました。
正直、結構疲れを感じていました。
運転している時には不思議な高揚感がありましたが、降りて寛ぐと、どっと疲れが出ます。
無理もないのかもしれません。だって、何もかもが人生初体験の連続でしたから。
波の音を聞きながら、チョコレートパフェの甘さとほろ苦さが口に広がるのを感じます。
「美味しい…」
疲れていたのもありますが、妙に美味しく感じました。すぐそこには海と、向こう側に江ノ島が見えます。空は青く、強めに吹く風がテラス席のパラソルを攫おうと揺らしていきます。
美しいと思いました。
そして唐突に、私はここが好きだと感じました。また来たい、また来て、気軽にこの時間この空間を味わいたいと思いました。
湘南に住んでいるのですから、距離的には決して不可能ではない筈です。ただし、ここへ来るまでに電車で乗り換え、最寄り駅からも相当な距離を歩かなければ来れません。来れたとしても、このカフェと自宅とを往復するだけで一日がかりになってしまいます。
「…そうか、自分のバイクがあればここにも好きな時に来れるんだ」
「そうですよ」
それまでテーブル上のフレンチトーストと海の写真とをいそいそ撮影していたSさんが、私のポツリと漏らした呟きに素早く反応しました。
「バイクがあれば、いつでも自由にどこへでも行けます」
…自由?
その時、私の脳内で起こった思考の流れが、もしかしたらこの日一番の激動だったかもしれません。
Sさんにも言っていないので、もしかしたらこの時間はまったりしたカフェタイムとしか思っていないかもしれません。でも私はこの時、疲弊した肉体を休めながらも、脳内では彼の口から出た単語を転がしていました。
自由。
反芻し、そして泣きそうな思いで痛感しました。自由、その対義語の、不自由を。
そうか、私は不自由だったのか。
どこかへ出かけたくても、ついてまわる問題。それは、路線図であり、時刻表であり、家族の了承、そして交通費とトータルでかかる時間。その全てをクリアした場所にしか私は行けない。例えどんなに見たい行きたいと願っても、その手間と時間とで断念してきた今までの人生。それは不自由以外の何ものでもなかったんです。
見たい景色、行きたい場所はたくさんあったし、これからだってきっとたくさん出て来ます。家庭のためだと、そして家庭内にこそ自分の居場所があるのだと、自分の願望にずっと蓋をし、無意識に封じ込めてきました。
自覚した途端、渇望しました。
自由を。
勿論、主婦業はちゃんとやります。仕事だって手を抜きません。子育ても真剣に向き合います。
だからせめて、自由になれる時間を、と切実に思いました。諦めてきたもの、やりたい事を頭の中で巡らし、思い当たります。
「私さ、アウトドアがしたいんだよね」
「いいんじゃないです?」
Sさんが先程撮影した写真を、おそらくSNSにアップしながら応えます。
「バイクに荷物積んで行けますよ」
そういえば、最近は女性のソロキャンプが流行っていると雑誌で読みました。キャンプは家族や仲間達とワイワイやるもの、という常識が塗り替えられてきているのです。
一人バイクに跨りツーリングに出かけ、夜はソロキャンプを楽しむ。私はその様を想像し、先程食べたチョコレートパフェのように、甘く蕩ける感覚に一人ひそかに恍惚としたのです。
そして素早く脳内で、バイクを持つにあたっての不可能ポイントをおさらいしました。
まず、かかる費用。これはクリアです。免許取得にかかる費用含め、バイク一台なら私一人の稼ぎから生活費を抜いても充分に賄えます。
次に乗りこなす体力。これもクリア。日頃から筋トレで鍛えている肉体ならば、決して無理ではないはずです。
運転することへの不安感。それも、クリア。今日一日のクロスカブの運転により自信がつきました。
最後に、バイク乗りの人達そのものへの先入観。これは言ってませんでしたが、私はずっと、通勤や買い物以外でバイクに乗る人達、とりわけツーリング等を楽しむバイク乗りの人達は、激しく急カーブしたりスピードを飛ばす乗り方をするのだとばかり思っていたのです。何故そう思い込んでいたのか分かりません。生まれ育った地元の、集団でバイクを走らせていた人達のイメージが強かったからかもしれません。
ですが、それもクリア。それはSさんの運転の仕方とポリシーを見てれば分かります。
Sさんは一貫して安全運転ですし、道交法も遵守します。そして後続車や歩行者への気遣いも忘れません。バイク乗り=激しい人。という構図は、彼のタンデムツーリングによりとっくに崩壊していました。
あとは…。
ありませんでした。
バイクに乗らない理由は、この時点で全て潰されていたのです。