吊り橋は一方通行でした。
橋を渡り切ったら、徒歩で渓谷を迂回して戻らなければいけません。
そのことについては、橋を渡る手前から散々注意書きが提示されてありました。
ですが私もヨシさんも、さほどの考えも覚悟もなく橋を渡ってしまったのです。
「おぉ…マジか」
ヨシさんが息切れしながらこぼします。
まさか、350段もの急峻な階段が続くことになろうとは、思ってもみなかったのです。
「まぁ、ゆっくり行こうよ」
端っこに寄り、後ろから颯爽と登って来た男性に先を譲りながら言います。
「ちうさん知ってたの? ここがこんなだって知ってた?」
ちょっと恨みがましくヨシさんから聞かれました。
「知らない知らない」
橋が一方通行だということすら、私もついさっき知ったのです。
しかもこの階段は、高さの均一な上がりやすいものではなく、登山道のそれでした。
一段一段が不揃いで、砂利や木の根が混ざった滑りやすい箇所まであり、足元に注意しないと危険です。
それが、余計に肉体を疲弊させていきます。
「ごめん、ちょっと休んでいい?」
「うん、休み休み行こう」
登り途中でヨシさんが岩に腰掛けたので、リュックから飲み物を出して私もドリンク休憩にします。
「私も暑くなっちゃった」
バイクウェアを着ていましたが、脱いでくれば良かったと軽く後悔しました。
バイクを走らせている時には寒かったのに、今は汗だくです。
残りの階段もゆっくりと登って行きました。
「俺、明日は絶対筋肉痛だわ」
「あはは、どの辺りが筋肉痛になるかな?」
「まずは太ももと〜。あとはふくらはぎ?」
「下腹部もかもよ〜? 脚を上げる動作で案外使うから」
「鍛えられるなぁ」
「ね〜。鍛えられるね〜」
「ちうさんとツーリングするといつもこうなる」
笑ってしまいました。
確かに私はツーリング先でバイクを降りたら、その場所を徹底的に堪能したくなるのです。
ヨシさんはいつも何だかんだ言いながら、そんな私に付き合ってくれます。
ようやく『展望台』へと辿り着けました。
「せっかく登って来たわけだけど。『感動の絶景』とまではいかなかったみたいだね…」
植物や木々が邪魔をして、そこからの眺めはさほどでもありませんでした。
「ホントだ〜。まぁ、仕方ない」
なだらかな斜面を下っていきます。
むしろ、その途中に広がる景色の方が素晴らしかったです。
そうしてようやく麓まで戻って来ます。
「よし! じゃあ温泉に入ろう」
「お、いいねぇ」
寸又峡と言えば吊り橋と、そして温泉が有名なようでした。
この辺りのお湯は美肌効果が期待されることから、『美人づくりの湯』と称される名泉なのだそうです。
せっかくだから温泉に入って行こうと決めていました。
一軒の日帰り温泉施設に入って行きます。
『女湯』の暖簾をくぐり中に脚を踏み入れると、他のお客さんの姿はありませんでした。
大浴場も露天風呂も、貸切状態でゆったりと堪能出来ます。
お湯はトロリとしており、確かにお肌がすべすべになりました。
身体の芯から温まります。
お風呂から上がり、服を着て髪を乾かしている間も身体がホクホクしていました。
暑すぎてバイクウェアが着れなかったくらいです。
合流したヨシさんの頬も上気しています。
「こちらでご休憩もいかがですか?」
施設の女将さんがそう言って休憩室を指して下さいます。惹かれましたが、時間も時間だったので謝絶しました。
「いいお湯でした〜」
私がそう言うと女将さんはお礼を返した上で、
「バイクでお越しなんですか?」
と聞いてきました。
「はい、そうなんです」
バイクやヘルメットがなくとも、装備でライダーだとバレてしまうようでした。
「ライダーさんもよくいらっしゃるんですよ。うちで駐輪も出来るので、今度は是非泊まりでいらして下さいね」
ここのお湯に浸かってゆったり温まり、そのまま宿泊、というのは確かに魅力的だと思いました。
後ろ髪を引かれる思いですが、今日は帰らないといけません。
バイクの元に戻る頃には、薄暗くなりつつありました。
温泉のお陰で温まっていた身体も、ひんやりとした山の冷気を受けて段々と冷えてきています。
バイクウェアをしっかりと着込み、出発しました。
県道77号線を下って行きます。
寸又峡の面白いところは、どのルートからでもこの長い山道を越えないと辿り着けないところでしょう。
関東のライダーにとって静岡といえば伊豆のイメージが強いのかもしれませんが、ここもまた楽しいツーリングスポットだなぁと、改めて思いながら走りすすめます。
いつの間にか、日もすっかり落ちてしまいました。
「来た道とは別ルートで戻るね〜」
「うん」
「日も落ちちゃったけど、ちうさん怖くないかな? まぁこの先は国道だから、そんな激しい道ではないはずだけど」
「うん、大丈夫」
やがて国道362号線へと入ります。
ヨシさんの予測は大きく外れました。
「え…マジですか」
国道とはいえ歴とした峠道、なのに街灯は皆無でした。
滅多にやらないハイビームを駆使して運転します。
セローのライトは暗めです。
最近はいつもヨシさんが前を走ってくれているので、夜の走行でもそれほど怖さを感じてはいませんでした。
ですが、山道となると話は別です。
ヨシさんがカーブを曲がりきってしまうと、照らされるライトの方向も変わってしまうため、もはや頼れるのはセローのライトのみとなってしまいます。
闇を照らし出しながら、慎重に走りすすめます。
加えて。
「次、カーブだよ〜。『いろは坂』並みのピストンカーブ」
「うん」
昼日中でも緊張してしまうような、ヘアピンカーブです。
それが何度も続きました。
他の車の姿もなく、街灯もなく、しかも激しめの峠道。
「見えなかったから道を外れた」では済まされません。命に関わります。
目を凝らし、全神経を運転に集中させました。
何度目かのカーブを終えた先で、ようやく街灯が出てきました。
たったそれだけのことで心の底から安堵します。
「街灯ってすごいんだね」
私が言うと、
「そうだねぇ。明るさが違うね」
とヨシさんが応えました。
やがて街中の走行になります。
寸又峡を出てから初めての信号に出くわすまで、なんと1時間半も経過していたのです。
ようやくホッとしたので、インカムでの会話を再開します。
「さっきの、暗闇での峠道走行。すごくいい経験になった気がする」
「そうだよ、夜の峠道は運転の上達にすごくいいらしいよ。運転に全神経を集中させるから」
「へぇ〜、そうなんだ?」
街灯はおろか、月明かりすらない夜の峠道。
繁華街から大きく外れた美しい渓谷からの帰り道は、これまた貴重な経験を積ませてもらえる素敵な道程となりました。