「明日はお昼はどうするの?」
土曜日の夕飯時。
息子のタロウ(仮名)が鶏の竜田揚げを頬張りながら聞いてきました。
何か予定があって別々に食べるのか、用意してくれるのか、はたまた自分が作っておいた方がいいのか。予めハッキリさせておかないと、自身のスケジュールにも影響してくるからでしょう。
「あ~…明日さ。私、久々にバイクに乗ろうと思うんだ」
私が言うと、ふぅん、と軽く応えます。
「あ、お昼までには帰って来るつもり。帰って来たらご飯作るよ。もっとも…」
天気予報を見ながら私が続けます。
「今晩から明日朝にかけて雨みたいだから、あまり早くからは出られないかもしれないけれど」
「ん? だったら午後から出れば良くね?」
タロウのもっとな指摘に口を尖らせます。
「えぇ~? ツーリングは朝イチから出るのがいいんじゃん。空気も綺麗で道も空いてるし。はいそこ、『知らんがな』って顔しない!」
「いや知らんがな」
言っちゃってるし。
ともあれ、久々のソロツーリングを決行する事にしたのでした。
翌朝、朝食を用意してバイク装備を準備していると、起きてきた息子がモソモソと朝ごはんを食べながら「行ってらっしゃ~い」と手を振りました。
「うん、行ってきまーす」
笑顔で応えて玄関扉を開きます。
キーを回してセローのエンジン音を耳にすると、自然と、ツーリングのボルテージが上がってきます。
走り始めると初夏の風を感じました。
肌寒いかと重ね着してきましたが、むしろ暑さを感じるくらいでした。ジャケットのチャックを胸元にまで下ろします。
緑の深まりを感じながら、木々の葉っぱを眺めて走ります。
明け方近くまで降っていた雨も今はすっかり上がり、青空を見せています。一晩降った雨により空気も澄んで、景色も綺麗に見渡せました。
目的地としていた公園には、一時間弱で着きました。
公園内を軽く散策し、本を広げて読書に耽ります。
「あっ、コラ!」
男性の嗜める声がしたかと思うと、足元に小型のチワワがすり寄って来ました。
「あら~、こんにちは」
可愛さに顔を綻ばせながら挨拶しましたが、チワワは私と目が合うと後ずさりし、飼い主の元へと駆け戻って行きました。
「すみません」
飼い主さんが会釈してくれたので、「いえいえ」と笑いながら応えて本に目を戻します。
外の風を感じながら本を読む時間も、これはこれで贅沢だなぁと思いました。
ここ数日、図書館から借りてきた本を家でひっそり読むばかりの日常を送っていました。
元々本を読むのは好きでしたが、体調を崩した事と経済的な理由もあり、そのくらいの趣味しか自分には『許されない』と思い込んでいたのです。
ですが、風も日差しも受けずただただ屋内で過ごす日常は、自身の健康上かえってよろしくないのではと判断し、思い切ってバイクで出掛ける事にしたのです。
「よっし!」
本を閉じると、大きく伸びをして深呼吸します。
お昼ご飯を作るなら、そろそろ帰らなければなりません。
帰り道、自分でも慎重すぎると感じるほどに、安全運転を心掛けました。
神経を尖らせすぎて、逆に疲れてしまうのではないかと感じるほどです。だけどそれ程に私は、『無事に帰りたい』という思いが強かったのです。
息子との二人暮しになって約5ヶ月。
自発的にツーリングに出たのは今回が初めてでした。お誘いいただいたツーリングは何件かありましたが、悪天候により流れたり、スケジュールが合わず残念ながらお断りしたものばかりで結局機会に恵まれませんでした。
でも何よりも、私自身にツーリング意欲がなくなっていたのです。
あの時。
「お母さんと一緒に行く」
と言ってくれた息子に私は嬉しく感じながらも、でも私と来たら、経済的に苦労させてしまうかもしれない、と息子を諭してしまったくらいです。
案の定二人暮らしになってからは、趣味に興じる時間も金銭的余裕もなく、日々の生活と仕事に追われ、心身にも時間にも余裕がなくなってしまいました。
それでも。
帰ろうと思える家がある。
無事帰りたいと思える家族がいる。
それは当たり前の事なのかもしれません。
でもそれがどれ程幸せな事なのか。今なら心から実感出来ます。
以前の私にとってそれは、とても難しい事だったからです。
家にいるのが辛かった。
帰らなければいけない家が、そこしかないのが辛くて苦しくて仕方なかったのです。
羽目の外し方すら知らずに生きてきた私にとって、バイクとの出逢いは運命的とも言えました。
家にいなくていい理由付けをするように、休日の度、バイクであちこちを走り回りました。
息子はそんな私に、「バイクで出掛けておいでよ」とこっそり、でも快く送り出してくれました。それが私の唯一の憂さ晴らしである事に気付いていたのかもしれません。
ですがそれは、『現実逃避』以外の何ものでもなかったのです。
バイクが好きなら、きちんと現実に即してバイクを楽しみたい──。
自分の歪んだ日常を質さなくては。
そう決意したのは一年ほど前の事でした。
自分の決意を切り出した時。
「お母さんと一緒に行く」
と言い切った息子は、
「貧乏でも大丈夫だよ! 二人で頑張ろう」
と私を励ましてくれました。
泣き崩れる私を息子が抱き締めてくれました。
息子の身長は、私のそれを20cmも上回っていたのです。
いつの間にこんなに大きくなっていたんだろう。私の両腕に、すっぽり収まっていたというのに。
家事はお互い出来る範囲で、不満があればきちんと話し合う、お金と時間の取り決めはきっちり守る等、二人での生活に新たな取り決めをしました。
仕事から疲れて帰って来ると、「おかえり~」とキッチンから菜箸片手に出迎え和ませてくれます。
最近では料理の腕前も上がり、揚げ物なんて私より上手に出来るのではないかと思うほどです。
そんな息子を大事に思うほどに、バイクに乗るのが怖くなっていきました。
好奇心旺盛で学ぶことが大好きな息子は、大学進学を望んでいます。まだまだ親の庇護が必要なのです。でも、頼れる肉親は、たった一人。私だけなのです。
その現実に押しつぶされそうになります。
私に何かあったらどうしよう?
この子を天涯孤独にしてしまったらどうしよう?
その想いは次第に恐怖心となり、私をバイクから遠ざけてしまっていました。バイクは危険と隣り合わせの乗り物だからです。
家庭内のトラブルと仕事の多忙が続き、ついには心労により体調を崩してしまいます。
「あんたは真面目すぎるんだよ! そんなんだからつけ込まれたんでしょ」
そんな私を友達が叱責しました。
「楽しんでいいんだよ! 息子さんだって心配してるんでしょう? 何も贅沢三昧しろって言ってるんじゃないよ、でも日常に楽しみがなきゃ。そりゃ、辛くもなるよ」
楽しむ。
バイクに乗る原点となったその感覚を何故か私は忘れていました。
「ただいま~」
玄関の扉を開けると息子が、「おかえり」と部屋から出てきてくれます。私からハグしようとすると、「うっわ、ウゼェ」と逃げられました。
「今ご飯作るからね~」
手を洗いながらそう言うと、「ほーい」と応えて自室に引き上げていきます。
包丁片手に、
──あぁ、楽しいなぁ。
と感じました。
刺激的でも独創的でもない、ロンツーですらない近場のソロツーリング。
でも大切な人からの、「行ってらっしゃい」と「おかえりなさい」がちゃんとある。
私には私の、日常に則したツーリングの在り方があるのかもしれません。
これからもそれを、ゆっくりと時間をかけて模索していきたいです。