「では午後の練習に入りますが。皆さん、何かやりたいことはありますか?」
昼食後、よしださんが全員を見渡しながら訊ねました。
とにかく基礎技術を向上させたい私は「いえ、特には」と首を傾げましたが、ぴすけさんはモトクロスコースが走りたいと答え、ヨシさんはフロントアップが出来るようになりたいと言いました。
「分かりました。ではまず最初にモトクロスコースを走ってみましょうか。その後また広場での練習に戻ります」
「はーい」
全員で返事をします。
よしださんが私を見遣ると、
「でも、ちうさん大丈夫ですかね…?」
「え?」
「コースに上り坂があるんですが、壁のように感じちゃうかもしれません」
「ま、マジですか…」
そんなに急勾配なのかとたじろぎます。
「あ、でも」
ぴすけさんが言います。
「下から見れば確かに壁なんですが、走っちゃえば案外上れますよ! セローは頑張ってくれます」
「そうなんですね」
とにかく、走ってみることにします。
コースを走るのは初めてです。
バイク一台がようやく通れる幅のオフロードコースを、よしださんの先導で走っていきます。
「あっ」
カーブを曲がりきれずにいきなりコースアウトしてしまいました。
「ちうさん大丈夫?」
後ろを走るヨシさんが聞いてきます。
「あ、うん。ヨシさんごめんね」
コース内にセローを戻すのを手伝ってくれました。
走り出すと、目の前に上り坂がありました。
それは確かに壁のように立ちはだかっているように見えましたが、ぴすけさんの言う通り、進んで行くとセローはトコトコ上ってくれました。
その後もコースは続きます。
轍が陥没している狭いオフロードコースです。
カーブの度に曲がりきれずに足をついてしまいます。
あぁ。
私やっぱり、オフロードでろくに曲がることすら出来ないんだなぁ。
それを痛感しました。
次の上り坂では、助走が足りず坂の途中で停まってしまいます。
追加でアクセルを回しても進んでくれず、リアとフロントでブレーキを掛けますが全く利かずに後ろにずりずりと下がり、やむなく転倒してしまいました。
ヨシさんとよしださんが引き起こしを手伝って下さいます。坂道の途中のためか、セローの重さが何倍にも感じられたのです。
坂の途中からの発進は難しいとの事で、私のセローをかなり後ろにまで戻して再出発です。
助走を付けたので、次はちゃんと上りきれました。
その後も私は何度か曲がりきれずにコースアウトをし、草むらの中に入り込んだり隣の道に入ったりしてしまいます。
ずっとスタンディング運転でバランスを取り続けている為、もはや暑すぎてヘルメットのシールドを開けていられません。
目に砂埃が入ることも構わず全開にしました。
転倒したため、顔や髪にも土が着いていますが、それすらも構っている余裕はありませんでした。
やがてコースが終わり、今度は河川敷の砂利を走ります。
踏み固められた砂利の上を走っている時には安定していましたが、砂の上になると車体がグラグラし始めました。
車体が大きく沈み込み、タイヤも滑ります。
その砂地の上でターンする時、制御出来ずに再び転倒してしまいました。
「う、動けません…」
今度はセローの下敷きになってしまいました。
自力ではセローを押し退ける事すら出来ません。
ヨシさんが笑いながら降車し、よしださんも来てくれてまたも二人で助け起こして下さいます。
私一人が転びまくってる…。
他は誰一人、一度も転んでいないというのに…。
さすがに落ち込んで来ました。
私が転ぶ度に全体の流れを止め、しかも引き起こしすらろくに出来ない為、お二人から手伝っていただいてしまっています。
他の皆さんは涼しい顔してごく当然のように走り抜けているように見え、それが更に気分を沈ませてしまいました。
よしださんが斜面の手前で停車させました。
見上げると、先程私達が休憩を取っていた広場があります。ひと回りしてきたようですが、あの広場に戻るにはぐるりと回り込むか、目の前の急勾配を上っていかなければなりません。
その斜面にはバイク一台通れそうな細い道らしきものがありますが、途中がガレていますし勾配も急です。
「もはや壁にしか見えません…」
私が言うと、他の人達が笑い出しました。
「確かに、ちょっとここは怖いですよねぇ」
同意してくれたぴすけさんに、
「ぴすけさんなら行けるんじゃないですか?」
よしださんが言います。
「えっ、私ですか!? 無理無理無理無理」
手を振りながらぴすけさんが応えます。
「勾配だけならともかく、ガレてるのが怖いです! 捲れちゃいそうですし」
「あの砂利の辺りまでしっかり助走を付けて…」
よしださんが指さしながら言いました。
「そこから先はアクセルを少しだけ戻すんです。怖がって追加で過剰にアクセルを回さなければ、捲れることはまずありません」
「え、そうですか? …私、行ってみようかな?」
よしださんからの具体的なアドバイスを受け、ぴすけさんがやる気になっていきました。
「よし! 行ってみます!」
ぴすけさんが発進しました。
私には壁にしか見えない勾配を、ぴすけさんはとても滑らかに上って行きます。
「上れたー!!!」
上がり切った先でターンをしながら、ぴすけさんが歓声を上げました。
離れていてもその声がハッキリ聞こえて来るくらい、嬉しそうな声でした。
「すごーい! ぴけちゃんカッコイイ!!」
私が言うと、ブンブンと手を振ってくれました。ヘルメット越しでも彼女が満面の笑みなのが分かります。
「ぴすけさんも練習し始めの頃は、今のちうさんと同じくらいだったんですよ」
「え、そうなんですか?」
「はい。ここ一年近く練習を重ねて、彼女はとても上達しました」
高台の彼女に目線を戻します。
先程この『壁』を見上げたぴすけさんは、明らか私と同じように怖がっていました。
『無理』だとすら何度も言っていました。
それでも「やってみる」と発進させ、そして見事に上り切ったのです。
それは根拠のない自信から来る暴挙などでは決してなく、彼女自身がコツコツと積み上げてきた経験値のなせる技だったのでしょう。
勿論、彼女の力量を知悉し、具体的なアドバイスを授けるよしださんの存在は不可欠だったのかもしれませんが。
それでも、怪我ありきの無茶でも蛮行でもなく、経験と知識とを元に、立ち竦む恐怖を振り払い発進したのは、紛れもなく彼女自身であり、それこそが本物の勇気なのではないかと思いました。
舞いあがる砂埃が夏の陽射しを受けキラキラと輝いています。
彼女を取り巻くそれらの煌めきは、花吹雪よりもずっと美しい──。
ぴすけさんに手を振り返しながら私は、じんわりとそう感じたのでした。