『シャドウ教官、お願いがあります』
それは、千葉ロングツーリング当日のこと。
帰るなり私は、Sさんへの帰還報告もそこそこに、上記呼び掛けで切り出したのです。
『はい、なんでしょう?』
『バイクの引き起こし練習に付き合ってもらえる? 自分のバイクを自力で引き起こせない、では話にならないと思って』
そう。
千葉ロングツーリングのさなか立ちゴケしてしまい、セローを自力で引き起こせなかったことは先に述べました。
そして、後でみっちり反省し、引き起こしの練習をしようと決めたことも。
その練習を、Sさんからみてもらいたいと思ったのです。
『なるほど。 お安い御用です』
こういう時、二つ返事で快諾してくれる友達の存在は本当に有難いと思いました。
本来、教習期間中に習得しているはずのバイク引き起こし動作。
教習所によっては、入校前に引き起こしをさせ、それがクリア出来なければ入校自体を断る所もあるのだそう。
それくらい重要で、かつ難しい項目なのでしょう。
ですが、教習所によって基準にバラつきがあるのが現状なようです。
私の通った教習所は緩い所だったらしく、そういった入校審査はありませんでした。教習期間中も、引き起こし講習があったのは初回の『スタンド』項目での1回きり。
私を含む女性受講者のほとんどが引き起こしに苦戦していましたが、習得したとはとても言えない段階なのに、教習時間は終了してしまったのです。
「まぁ、ほとんどの女性が苦戦しますが、ほぼ全員が卒業までには起こせるようになるので大丈夫です」
教官の言葉に、当時はホッと胸を撫で下ろしたのです。
ですが、結局そうなることはありませんでした。
卒業まで起こせるようになるためには、卒業までに、つまり教習期間中に何度かバイクを倒さないといけないのです。
幸か不幸か、教習期間中、私は一度も立ちゴケをしませんでした。そのせいで、バイクを引き起こす機会に恵まれず、引き起こし作業に不安の残るまま卒業することになってしまったのです。
千葉ロングツーリングより、一週間後の朝──。
待ち合わせ場所に到着したSさんは、バイクから降りてヘルメットを脱ぐや、
「それで、今日はどこ行って練習します?」
と聞いてきました。
「…ん?」
練習場所の候補は伝えてありました。
さすがに、セローをアスファルト上に倒すのは心配でした。なので未舗装となっており、尚且つバイクで入れそうな所を事前に調べてはおいたのです。
「そこじゃ、ダメってこと?」
「そこは混んでるかなぁと思うんですよね」
なるほど、確かに混雑は予想されます。
Sさんは自分の携帯電話を弄りながら、
「それに、砂浜がいいと思うんですよね。ここと、…あとこことかどうかなと思うんですが」
Sさんが携帯画面を差し出して見せてくれたのは、湘南より東へ行った砂浜と、西の砂浜でした。
どちらも閑散としており人もいないため、存分に練習出来そうです。
どちらにしようかと考え、とりあえず西の方のに決めました。
それにしても、私が考えていたのはただの未舗装の地面だったのですが、Sさんはあくまで砂浜にこだわりました。
その理由は後に、嫌と言うほど分かることになります。
練習場所に到着するや、バイクを停めて軽く下見をします。
ビーチというより、本当にただの砂浜でした。隅っこには打ち捨てられた車が二台と、何かの不燃ごみが積み上げられていました。
真隣は工事現場らしいのですが、その日は日曜日のため作業者も誰もいません。
確かに、ここなら人目を気にせず引き起こし練習が出来そうです。
「でも、とりあえず飯食いましょうか。腹が減っては引き起こしは出来ぬと言いますし」
そんな格言は聞いたことがありませんが、確かにお昼ご飯の時間です。
Sさんが携帯で周辺情報を検索しながら聞いてきます。
「どっちがいいです? 海鮮系か、寿司か」
「それって同じじゃない!?」
とりあえず回転寿司でお昼ご飯をとることにしました。
食後、バイクを砂浜まで運びます。
タイヤを取られて中々前に進まず、なんとか二人かがりでセローを倒せる所まで運びました。
運び終わるや、Sさんが何故か折り畳み椅子を出して砂浜で組み立てます。
「座るの?」
「高みの見物をしようかと」
ですが、Sさんがその椅子に座ることは結局一度もありませんでした。
付近の石をどけると、そっとセローを倒し、練習開始です。
まずはやってみせて貰います。
Sさんがすんなりと引き起こしました。その動きをよく観察します。
いよいよ私も取り掛かるのですが、
「重っ!!」
やはり、ビクともしません。
「腕の力で引っ張りあげるんじゃなく、脚の力で起こさないと」
とはいえ、踏ん張れば踏ん張るほど、砂に脚を取られてしまいます。脚だけが後退してしまうのです。
セローもです。脚も動かず上手く力が伝わったかと思うと、今度はセローのタイヤが砂に取られてズルズルと動いて行きます。
「…な、なに? これは本当に引き起こせるの?」
もう一度、Sさんから引き起こしをやってみせてもらいます。
脚が後方にズレることもなく、やはりすんなりと引き起こせていました。
再度、私も引き起こしにかかります。
やはり動かなかったのですが、今度はSさんが持ち上げるのを手伝ってくれました。
セローがゆっくりと起き上がります。
「補助してもらうと出来るみたいだけど…」
それでは意味がありません。
「最初の数cmは力が要りますが、そこさえ持ち上がれば出来るはずです。その箇所だけ手伝うので、徐々に掴んでいきましょう」
Sさんの補助付きで起き上げる練習を、何回かやります。最初の数センチと言いますが、そこが一番力が必要でした。脚の使い方や力の込め方を徐々に身体に覚え込ませます。
いよいよ、Sさんの補助なしで挑戦です。
ですが、
「やっぱり無理〜!!」
…引き起こせませんでした。
「ちょっと、休憩しますか」
Sさんが言うので小休止です。
お茶を出して飲んでいると、「おやつ食べます?」とひと口バウムクーヘンのファミリーパックを差し出してくれました。
「ありがとう。じゃあ、一ついただきます」
バウムクーヘンをモグモグしながら、景色を眺めます。
閑散とした工事現場、廃棄され錆びれた車、そして砂浜に倒れている一台のバイク…。それは紛うことなき私の愛車、セロー。
「なんか…。セローを虐めてる気分になってきた」
ポツリと呟くと、
「そう思うんなら、さっさと起こしてあげてくださいよ」
「……」
的を射たセリフに、グウの音も出ません。
「あ、もう一ついります?」
「いや、もういいかな」
ていうか、まだ食べるんすか。あれだけお寿司食べたのに。
その細い身体の何処に食べ物が消えているのか、そしてその身体でどうやってバイクを引き起こしているのか、不思議でなりません。
立ち上がり、ウエアを脱ぎ捨てました。暑くて邪魔になったからです。真冬の気温でしたが、引き起こし練習により汗だくでした。
さて、休憩は終わりです。
私はセローの車体に手をかけます。
「いいですか。上半身で引き上げるのではなく、車体を上半身に委ねて下さい。引き上げるのは、あくまで脚の力でです」
──上半身に、車体を委ねる。
「あと、持つ手をもう少し広げた方がいいかもしれません」
私は後方の持ち手を、ドラムバックの後ろにまで伸ばしました。姿勢を低くします。
──そして、脚の力で引き上げる。
グググッと車体が上がっていきます。
「お?」
あっさり起こせました。
すぐに倒して、再度挑戦です。まぐれの1回かもしれないと思ったのです。
次も成功しました。またすぐに倒しますが、その次もです。
「…なんか、出来たみたい」
急に出来るようになりました。
「出来ましたね」
Sさんの頷きにより、バイク引き起こし練習があっさり終わりを告げたのでした。
《続く》