バイクは私の頭上を飛び越え、真後ろに落下しました。
がなり立てるセローのエンジン音が赤子の癇癪泣きのように耳をつんざいたので、慌ててエンジンを停止させます。
でも、私が出来たのはそこまで。
座り込んだまま放心状態で倒れ込んだセローを見つめます。
「大丈夫ですかっ!?」
AOさんが駆け寄って来ました。
後ろを走っていたため、私の派手な転び方をまともに見てしまったようで、血相を変えて飛んで来てくれました。
「立てますか?」
轟音を聞きつけたらしきTHさんも戻って来てくれました。THさんは冷静でした。静かに呼びかけてくれます。
「あ、はい。大丈夫です」
ようやく正気に戻り、立ち上がります。
とりあえず私が立てたことにホッとした様子のお二人。
「何処か痛い所はないですか? 怪我をしている所や、動きにくいと感じる部位とか」
THさんの質問に、私は両肩を回してみます。
「ない…みたいです」
軽く動きながら身体のあちこちに神経を巡らせてみますが、痛さや動きにくさを感じる箇所はなさそうでした。
「いや」
それでも尚、THさんが深刻な表情を崩そうとしません。
「直後は神経が昂っていて大怪我していても気付きにくいものなんですよ。ちょっと休んでた方がいい」
お二人で私のセローを起こしてくれました。
派手に宙返りしたわりに、セローはそれほどダメージを受けていないようでした。
草むらの上に落下したのが幸いしたのでしょう。
それでもナンバーがひしゃげています。
THさんが手で伸ばして広げてくれましたが、やはり歪んでいました。
「大丈夫、ひしゃげたナンバーはオフ車乗りの勲章ですよ!」
AOさんが親指を突き立てそう言ってくれたので、ようやく笑うことが出来ました。
「じゃ、ちょっと行ってくるのでここで待ってて下さい」
言って、THさんが頂上目指して走り出します。
この先通り抜けは出来ないため、登ってもまたここへ戻って来なければならないのだそう。
なので私はこの場で待つことにしたのです。
「あれ、AOさんもここに残るんですか?」
少しだけ走ったTHさんが振り返り、降車したまま動かないAOさんに聞きました。
「あ、はい。僕もここに残ることにします」
走り出したTHさんを二人で見送ります。
「実のところ、僕もここ怖かったんですよ」
何故か声をひそめ、笑いながらそう言ってくれるAOさん。
「えっ、そうだったんですか? もぉ〜、それならそうと言ってくださいよ〜。無理して登って来ちゃったじゃないですか」
「あはは。正直入口で見上げながら、え、マジで行くのか?って思ってました」
怖かったのは私だけじゃなかったのだと知り、ちょっとだけホッとします。
ひとしきり笑った後、引っ掛かっていることをポツリと漏らしました。
「来た道を帰らなきゃいけないんですよね…」
そう。
今登って来たこの悪路の急勾配を、またバイクで戻らなければいけないのです。
やがてTHさんが戻ってきました。
「身体は大丈夫そうですか?」
「あ、はい」
時間が経ってみても、どこも怪我をしている様子はありませんでした。
ですが実はこの時、あちこち打ち身を食らっていのです。それを私が知ったのは2日後、皮膚が赤紫色に腫れ上がってからでした。
「じゃあ戻りますか」
「は、はい…」
バイクに跨りますが、怖くて中々アクセルが開けません。
これだけの急勾配なので、アクセルなんて開かなくても走り出しそうなものなのですが、大きな石にタイヤを取られて進まないのです。
なんとか走り出したものの、すぐ路面の凹凸にバランスを崩します。
少し前までならアクセルを開くことで立て直していたのですが、先程それをしてどんな目に遭ったのかが脳裏を過ります。
どうしたらいいのか分からず、崩れたバランスに抗う術もないまま、当然のように転倒しました。
しかも、セローの車体に挟み込まれて動けなくなります。
またも前後のお二人が助け起こしてくれたのですが、立ち上がることは出来ても、もう一度跨る勇気は湧き起こりませんせんでした。
「走れません」
ポツリと零した私のセリフに、お二人が振り返ります。
「すみません、やっぱりもう無理です」
「え、でもあとほんの数メートルですよ? そこのカーブを曲がったらすぐ舗装路なので」
THさんが言ってくれますが、そこは先程何度もエンストしてようやく通過できたピストンカーブです。もし曲がりきれなかったなら、今度は奈落に真っ逆さまです。
自分の中にある勇気をどうにかかき集めても、これ以上走るのはどうしても無理でした。
気が付けば足が震えています。
寒くもないのに意図せず震えが止まらなくなったのは初めての経験でした。
私はセローに乗って以降、初めてのセリフを口にしました。
「すみません、もうこれ以上は走れません」
THさんが代走してくれました。
一旦自分のバイクで舗装路まで出て、歩いて戻って私のセローを運転してくれたのです。
「いいなぁ〜。僕のも運転していって欲しいなぁ」
AOさんがそう言ってエンジンをかけ、
「うわっ、超こえ〜」と声を上げながら運転していきました。
徒歩で戻ると、確かにそこはほんの20mほどの距離でした。
THさんに何度もお礼を言います。
「お疲れ様でした。今日はもう舗装路を走りましょう。美味しいジェラートでも食べて、楽しく終わりましょうか」
THさんオススメのジェラート屋さんに連れて行って貰います。
「じゃあ、今日は本当にお世話になりました」
お二人にお辞儀をすると、
「いえいえ、誰だって始めのうちははあんなもんです」
THさんが応え、
「オフロード、嫌いにならないでくださいね」
AOさんが笑いながら続けます。
タイヤの空気を戻し、流れ解散となりました。
帰りの高速を走りながら、つらつら考えます。
私がオフロードをもう走らないと決意したとして、誰も私を責めないのでしょう。
「怖かったんだね」
「それがいいよ」
「別にバイクの楽しさはオフロードを走らなくっても味わえるんだし」
「無理しなくていい」
そして私自身を納得させるのも容易いことです。
「別にオフロードが走りたくてバイクに乗った訳じゃない」
「バイクも傷むし」
「怪我でもしたら元も子もないでしょ」
それでも、心の奥底では分かっていました。
それは自分自身の恐怖心に打ち負けた姿なのだと。いくら言い訳を重ねてみても、残るのは『逃げた』という敗北感のみ。
でも、何のために?
何故そうまでしてオフロードを走るのかと聞かれたならば、別に何のためでもないと答えるしかありません。
ですがそこには道があり、それを走破出来るだけのバイクを私は持っています。
全く進めなかった、たった20mのオフロード──。
オンロードツーリングでは何百キロも走っているというのに、そんな経験は全く役に立ちませんでした。
今までとは全く違う理論、全く違うテクニックが必要となるのでしょう。
やってみたい──。
せめて、恐怖に呑まれず自分の力で走り抜けられるようになりたい。
道は果てしなく遠くとも。
そんな私の思いに呼応するかのように、セローのエンジンは唸りを上げたのでした。